よれよれ将軍のよれよれ日記

日常のことをよれよれと書く日記です。

ノスタルジーの結末

ノスタルジー炸裂

9月の最終週あたりから、なんだか急にまた

ノスタルジーに心が支配されてしまって、

どうしようもなくなってしまいました。

なんか、去年も似たような時期に

似たようなこと言ってますが。

yoreyoreshogun.hatenablog.com

 

やっぱり、夏になると、子供時代の夏休みを思い出して、

昔が懐かしくなるのかなとか思いましたが、

それにしては、9月末ってのはタイミングが遅いですよね。

とか言いながら、実は原因は分かっています。

それは、steamで出たFF1~6のピクセルリマスター版を買って、

1~3を一気にクリアしたせいだと思います。

 

今回は、FFのせいで始まったノスタルジー

どこに行き着いたのかを、だらだら書きます。

 

FF ピクセルリマスター版

これね、当然ながら難度が相当下がっていて、

なにも考えずにプレイしてもサクッとクリアできるようになってます。

あまりにもサクッとクリアできてしまうので、

感慨もなにもないって感じですよ。

おそらくレベルアップに必要な経験値が大幅に下がっていて、

普通に戦闘してればモリモリ強くなれて、

どんどん進めるんですが、

なんせ元はファミコンのゲームなので、

コンテンツ量が少なくて、本当にあっという間に終わるのです。

でも、今プレイするにはこれくらいが

ちょうどいいのかなって気もします。

 

FF1

どうでもいい話ですが、

私が昔、ファミコンでFF1をプレイしてたとき

ティアマットのダンジョンにて、

謎のオブジェを調べると

「ログイン ログイン

 ティアマット カイセキチュウ……」

とかいうメッセージが表示されて、

これが妙に怖かったことを強烈に覚えています。

当時は「ログイン」なんて言葉を知りませんでしたし、

カイセキチュウ」もなんなのか分からず、

そもそも、なにがそのメッセージを発しているのかも分からず、

といった感じで、全体的に意味が分からず、

なんだかすごく気味が悪かったのです。

今にして思えば、それはコンピュータだったんだなと

理解できますけどね。

さあ、ピクセルリマスター版で、

この個人的トラウマのセリフと再び相まみえることが

できると思い、少しワクワクしてたのですが、

いざコンピュータを調べてみたら

ティアマット解析中

 いまだ弱点見つからず」

みたいなセリフに変わってて、

これはこれでショックでした。

なんでやねん!

まあ、こっちのほうが分かりやすくて、

ユーザに伝わりやすいという意味では正しいんでしょうけど、

想い出のセリフに再会できると思ってた私はがっかりでした。

少し調べてみたところ、このセリフの変更は、

今回のピクセルリマスター版で行われたわけではなく、

もっと前のリメイク時にこうなってたらしいです。

まさか開発者も、あんなメッセージひとつに、

ここまで思い入れがあるユーザがいるとは

思ってないでしょうね。

 

FF2

FF2といえばパーティアタックで味方のHPを上げたり、

1人以外全員死んだ状態にしておいて、

敵の攻撃を集中させて回避を上げまくったりするゲームとして

有名ですが、ピクセルリマスター版はそうはなってません。

一定回数戦闘をこなせばHPはもれなく上がります。

ただ、回避は上がりにくい仕様になったそうで、

このせいで逆に難度が上がってる説もあるようでした。

クアールに攻撃をくらうと、ダメージ関係なく即死するので、

回避が低いとこれを防ぐ手立てがないんですよね。

リマスター版では、クアール6匹とかに先制攻撃されると、

為す術もないまま全滅します。

でも、そのフロアに入ったところからリトライできるので、

あまり緊張感もなく、ゴリ押しでクリアできちゃいます。

 

FF3

こちらも難度の低下が激しく、

古代遺跡のアズリエルも楽勝という感じでした。

過去にトラウマ級の難度だったダンジョンも楽チンで、

これはこれでやっぱり寂しいなぁとか思ったりします。

あと、プロテスの重ねがけができなくなってるので、

終戦で、プロテスをかけまくって波動砲のダメージを

1にすることはできませんでした。

が、波動砲自体があまり痛くないので問題ありません。

 

のちノスタルジー

こんな感じで、FF1~3をプレイしたところ、

昔を思い出してノスタルジーに浸ってしまったわけです。

決してディスるわけじゃないのですが、

もっと進化したゲームを色々と触った今となっては、

FF1~3はだいぶシンプルなゲームなわけで、

子供の頃は、このシンプルなゲームが

あんなに楽しかったんだなぁと考えると、

触れるものすべてが新鮮だった子供の頃というのは、

やっぱり毎日の輝きが今とは全然違うなぁ

とか思ってしまうわけです。

 

今年も散策

で、今年もモチを捕まえて、

「また想い出散策するぞ」

と強引に連れ出して、地元の散策をしたところ

母校のフェンスにこんなポスターを発見。

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10月2日(土)なら、卒業生は中に入れる!

でも今日は10月6日(水)。

私「もう過ぎてんじゃん! ぐぉぉぉぉ!
  あと数日早くこれを知っていれば……」

モチ「校舎の中に入れるってのは興味深いな」

こんなイベントはそうそうないので、

これは悔やまれました。

しかも70周年イベントでこれですからね。

次があるとしたら、おそらく10年後の80周年でしょう。

あと10年待たねばなりません。

ただ、こんなイベントやってるなんてそうそう知らないので、

致し方ありません。

10年後のチャンスを逃さないように、今から備えることとします。

っていうか、今は小学校もWEBサイトを持つ時代なんですね。

当たり前っちゃあ当たり前なんでしょうが、

母校がWEBサイトを開設してるというのはなんだか感慨深いです。

 

その後も、散策を続け

私「そう言えば、ここにHゼミナールとかいう
  塾があったよな」

と私とモチが小学生時代に通っていた塾を思い出しました。

この塾が、なかなかエクストリームな塾で、

一緒に通ってた同級生の女の子が結構遅刻魔で、

なにかってえと遅れて来ては「時計が止まってて気づかなかった」とか

しょうもない言い訳をするんです。

すると、講師がその子の頭を殴りつけて、

ヘアバンドが吹っ飛ぶというシーンをよく目にしました。

他にも、ちょくちょく20点満点の小テストを受けさせられ、

満点が取れないと、「20 ー 自分の点数」分、

竹刀でケツを叩かれるという体罰上等ぶり。

19点だったら1発、0点だったら20発叩かれるというわけです。

生徒の中には、小テストの日にはパンツを

数枚重ねて履いて来るやつも出てきて、

そういうやつはケツ竹刀をされると

ばふっという明らかに質感の違う音がして分かったりするのです。

そんな塾でした。

極めつけは、

私「生徒で、高田とかいうやついたよね」

モチ「H(講師)のしばき棒を隠したのがバレて、
  机に顔面叩きつけられて前歯折られたのが高田じゃないかな」

なんて返しをされて私は爆笑してしまいました。

塾に行って講師に前歯折られるってすごくないですか。

前歯を折られた彼は、その日、家に帰って親御さんに

なんて報告するんでしょうね。

ちなみに「しばき棒」というのは、

文字通り、生徒をしばくための棒です。

しばき棒を隠した結果、もっとしばかれたということです。

今だったら炎上どころじゃな済まない事態になりそうですが、

ほんの30年前はこれが許されていたのです。

時代ってすごいですね。

私も子供の頃は、ここに通い、

怖いから必死で勉強してたんだと思います。

 

そんな感じで、地元をまた数時間ぶらつき、

懐古に懐古を重ねたわけですが、

今回のノスタルジーはこれでは収まりませんでした。

やっぱり、母校の校舎に入れるイベントを逃したのが

でかかったのでしょう。

 

ちなみに、最後はまたガストに寄り、昔話をしつつ

私「同級生の名前どれだけ言えるかやってみるか?」

と提案し、ファミレスでおっさんふたりが、

名前を延々と挙げ、それをメモする私。

私たちの同級生は、転校生を含めておそらく 66人 だったのですが、

結果的に、65人 の名前をフルネームで挙げることができました。

なかなかの好成績と言えるでしょう。

漢字まで完璧に合ってたのは7割くらいでしたが。

 

ネットストーカー

ノスタルジー発作が収まらない私は、家に帰ってから、

小学校時代の同級生たちの名前を片っ端から

ググったりFacebookで検索したりしました。

なんだかもうノスタルジーに取り憑かれて

ちょっとおかしくなってた気がします。

そんな中で、数人の情報を掴みました。

Facebook上にアカウントを持っていたやつや、

看護師としてサイト上に名前が出てたやつ、

芸大の職員として名前が載ってるやつなど。

しかしまあ、とにかく誰とも連絡が取れません。

Facebookにアカウントがあるやつでも、

もはや数年前の投稿を最後にFacebookをやめているらしく、

友達申請を送ってもなしのつぶて。

ましてや、Facebookのアカウントもなく、

とあるサイトに名前が載ってるだけの友人など、

コンタクトのしようもありません。

ちなみに、私の本名でググると、

顔写真付きでちょっとした記事とか出てきちゃいます。

別に逮捕とかされてないですよ。

昔、少しだけ表に出たことがあるせいで、

今でもネットの海にその残骸が残ってしまっているのです。

なので私からすれば、

「お前らが俺の名前を検索して
 コンタクト取りに来いよ!」

って感じですよ。

私のFacebookアカウントは生きてますしね。

 

そんな中、小6の時分の恩師の名前でググったところ、

今は某小学校の副校長をしてるらしいことが判明し、

さらに調べたところFacebookアカウントを発見。

さっそく友達申請を送ってみたのです。

すると、翌日にはその申請が承認されました。

私はすかさずメッセージを送りました。

私「お久しぶりです。
 よれよれ将軍です。(もちろん実際には本名を書いてます)
 と言って覚えてらっしゃるか分かりませんが」
という当たり障りのない感じで。

生徒からすると担任の先生は一学年でひとりですが、

先生からすると、これまでに多数の生徒を担当してるわけで、

先生が私のことを覚えてるのかは少々怪しいところです。

メッセージを送った当日は返信がなく、

翌日返信が来ました。

先「将軍くん。もちろん覚えてますよ。
  担任しているときに、将軍くんのお母様から、
  手編みの白いセーターをプレゼントしていただいたことは、
  今でも忘れられません」(ある程度抜粋)

とのことでした。

おお、うちの母親はそんなことをしてたんだ。

そう言われてみれば、薄っすらそんな記憶があります。

その後、多少のラリーをして、

今度電話で話しましょうということになりました。

 

卒アル

10/9(土)

実家に行き、卒アルをはじめ、

小学校時代ゆかりの品々を発掘しました。

その中に、尾久六(小学校の名前)40周年のときに

もらった下敷きがありました。

みんなで校庭に集合して、空から写真を撮ってもらったものが

プリントされているものです。

そうか。このとき40周年だったから、

30年経った今、70周年なんだ。

 

母親に、先日の恩師とのやり取りを見せてみたところ

母「ああ、この先生は覚えてるよ。
  セーターかぁ、そんなこともあったねぇ。
  この先生には受験でお世話になったもん。
  若かったのもあるだろうけど、
  本当に、いろいろやってくれた先生だったね」

とのことでした。

そう。この先生は本当にいろんなことをしてくれた先生でした。

そのひとつが、受け持ってる子供全員に、

短歌をプレゼントする、というもの。

短歌の中には、その子の名前の漢字が使われていて、

みんなの個性を表すような内容になっているのです。

そしてなんと、その短歌はまだ私の実家に

飾ってあったりしたのです。

これを機に、その短歌も回収することにしました。

この先生が、他にどんな催しをやってくれたのかは

あとで出てきます。

 

さっそく家に帰って、卒アルを舐めるように熟読。

ここで同級生の名前を確認し、ガストでモチと挙げた名前と照合し、

ひとりを残して全員の名前が出てたことが確認できた次第です。

 

みんなの卒業文集を読むと、いろいろ具体的な情報が書いてあったりして

宝の山のような感覚です。

移動教室(修学旅行的な)でこんなことをしたとか、

アブラハムの子」という曲で踊ったとか。

そうそう。下田の移動教室では、

宿泊施設が管理している体温計が一個紛失したとかいう事件があり、

それで別クラスの担任がえらいキレてて、

レクリエーションの時間にみんなで「アブラハムの子」を踊ってるときも、

別クラスの担任がすごい仏頂面で私たちのことを

睨みつけていて、全然レクリエーションできなかったのです。

 

自分が書いた作文を読んでみたところ、

この日のためと言わんばかりに、小学校時代にあった

イベントが列挙されてました。

当時の私が、文字数稼ぎのためにこれをしたのかは覚えてませんが、

素晴らしい仕事をしたと褒めてやりたいです。

そして、作文の最後で

「この小学校での6年間を、僕は決して忘れません」

と結んでいるのですが、

私「ほとんど覚えてないよ!」

と過去の自分にツッコミを入れてしまうのでした。

 

電話

10月10日(日)

本日 15時過ぎくらいに、恩師と電話をする約束をしてあります。

もうソワソワしっぱなしでした。

ノスタルジーにまかせて電話の約束をしたものの、

いざ話をしたら、果たして盛り上がるのか。

期待と不安が入り交じる中、15時半くらいに電話がかかってきました。

先「いやいやいや、お久しぶりです」

なんて入りから始まり、そこからはもう怒涛の懐古トーク

すっかり盛り上がってしまいました。

 

そんな中でいくつかの会話を抜粋します。

私「先生は、学校横断ウルトラクイズとか
  やってくださったじゃないですか。
  ああいうのは、先生がやりたいと言えば
  できるものなんですか?」

これは、当時(多分)人気だった

アメリカ横断ウルトラクイズ」の学校版です。

校庭中に、クイズが書かれたパネルをばらまいたり、

校舎全体を使ってクイズ大会をするというイベントなのですが、

1クラスのイベントで、学校全体を使うことが許されるのか?

というのが、社会人を経験した今だからこそ感じる

疑問だったりするわけで、それをぶつけてみた次第です。

先「当時は先生も若造だったし、
  やりたがりだったから、ああいうのを
  自分から提案してたんだよねぇ。
  でもやっぱり上司の許可は必要だから、
  ちゃんと許可取ってやってましたよ」
私「上司というのは、校長になるんですか?」

先「校長と教頭だねぇ。
  今だったら、絶対許可されないよ。
  昔は今より緩かったというのもあるし、
  それを許可してくれた当時の尾久六の度量ですよ」

私「移動教室の夜、墓場で肝試しをしましたけど、
  (学校のイベントとして)墓場で肝試しって
  今やったら怒られますよね(笑)」

先「あの頃は本当に若かったから、
  ”リアリティが大事なんですよ!”とか言って
  他の先生方に提案してた。
  間違った方向に情熱を燃やしてた(笑)」

私「他の学校に行ってからも、
  ああいうイベントはやられてたんですか?」

先「う~ん、どうだったかなぁ。
  でもやっぱり尾久六が一番だった気がしますよ。
  そう! 夜の校舎を使っての肝試し!」

そう言えば、そんなイベントがありました。

19時くらいにみんなで学校の下駄箱にところに集まって、

ひとりずつ校舎の中を行くというものでした。

まず西階段に行き、三階まで上ったら、

校舎の東端へと向かい、東階段を降りて戻ってくるのです。

この、三階で東に向かうとき、

突き当りにあるのが家庭科室で、

その家庭科室の壁に白い影が見えたとか言い出したやつが

何人か居て、「M先生(家庭科の先生)の霊だ!」

とか言って盛り上がってました。

そんなわけないんですけどね。

M先生まだ生きてますし。

先「あれなんてもう、本当に、後にも先にもあのときだけ!
  だって、終わったのが20時とかで、
  それからお母様方が迎えに来るんですから。
  よくそんなこと許してくれましたよ」

 

私「先生の影響で、今も怪談が好きですよ」

そうなんです。この先生が、授業の合間とか

移動教室の最中とかに怪談をしてくれたおかげで、

多分、私は今も怪談が好きなのです。

先「私もまだ好きで、稲川淳二の怪談シリーズとか観てますよ。
  学校でみんなに話すときは、事前に結構練習しました」

私「あ、練習してたんですか(笑)」

先「しましたよー。
  ただ話しても怖くならないって聞いたんで、
  話す間(ま)とか、擬音とか、練習してました」

小学生相手に怪談するのに、そんなに練習してたとは。

ちなみに、あとでモチにこの話を共有したところ

「だからあのクオリティだったのか」

と納得していたのが印象的でした。

 

その他、色々盛り上がって、最後の最後に

先「実はね、N子ちゃん覚えてる?」

私「覚えてますよ」

先「N子ちゃんが、小学校の先生になったんですよ。
  それで、その管理者が私の知り合いで、
  縁があって、N子ちゃんとはLINEでつながってるんです。
  そこから、N子ちゃんつながりで、
  他の子数人ともつながって、小さなLINEグループがあるんですよ。
  先週くらいに、そこで話してるときに
  Y子ちゃんが
  ”小学校のとき、将軍くんが牛乳の一気飲みをよくしてて
  一回それを吹き出しちゃったことがあって(笑)”
  なんて話をしてたんですよ。
  そうしたら、その2日後くらいに将軍君から
  友達申請が来たんで、あまりのタイミングに鳥肌が立ちましたよ」

私「おおー、そんな偶然が」

先「分かりますか!? このタイミング!
  私もあまりそういうの信じないんですが、
  ちょっと震えました」

と、大変興奮しているご様子でした。

もう少しコロナが落ち着いたら、

ぜひ直接会ってプチ同窓会を開こうなんて話をして、

40分くらいに渡る電話は終了しました。

 

これにて、はち切れんばかりだった

私のノスタルジーも一旦落ち着きました。

この先生は、教師になって初めての生徒が私たちだったそうで、

故に張り切って色々やってくれたのだと思います。

ご本人は「間違った方向に情熱を燃やしていた」なんて

仰ってましたが、おかげで私たちは、普通の小学生の3倍くらい

楽しませていただいた気がします。

あらためて振り返ると、すごく光に満たされたような

子供時代を過ごさせてもらったなと思ったりします。

それは両親のおかげでもあるわけですが。

でも実際は、子供の頃にも嫌なことはいっぱいあって、

当時の本人は、言うほど幸せを感じてなかったかもしれません。

それでもやっぱり、友達と公園で水鉄砲を打ち合ってるだけで

意味が分からないくらい楽しかったあの頃は、

すごく幸せだったなぁと、

おっさんになってしみじみと思ってしまうのでした。

やっぱり大人になるとね、

面倒くさい現実がいっぱいあって、

子供の頃のように無心で遊ぶことができないんですよね。

 

というわけで、FFのピクセルリマスター版をプレイした結果、

小学校時代の恩師と再会(電話で)したというお話でした。

なにかに呼ばれたのかなぁなんて考えもよぎってしまう、

少し印象深い出来事。

 

ちなみに、私のノスタルジーの火は完全に消えたわけではなく、

以降も、Facebookで見つけた旧友たちと

どうにかコンタクトを取れないかと

試行錯誤をしていて、それが少し楽しかったりする

日々を送っております。